本居宣長

正直、宣長なんて興味なかったが…

国学者・本居宣長。義務教育の功績で彼の名を誰もが知るが、彼という人物をきちんと知る人はそう多くはないだろう。

「教科書に書かれているのは、一番つまらない部分ですから(笑)」と本居宣長記念館の吉田館長。
ですよねー、と大きく頷いてしまったのは、お世辞でなく記念館の展示物がとても面白かったからだ。

商人修行も脱落して引きこもり生活

本居宣長は、享保15(1730)年、江戸店持ちの木綿問屋・小津家に生まれた名家のお坊ちゃん。

当然、将来は父の後を継いで商人となるはずの身だったが、宣長は江戸の商家に修行に行っても、本ばかり読んでいたために1年で松阪へ帰されてしまう。

そこで2年間部屋に引きこもって何をしていたかというと…最初にしたのは日本地図の作成。畳1枚ほどの大きな地図である。

この日本地図は、ぜひ記念館で実物を見てほしい。書物からの情報に、旅人の話や自分が歩いてきた時の経験を照らし合わせ、検証して完成させた大作だ。
これを見ただけでも、宣長がただ者ではないというのが一目瞭然である。

学問の純粋性を守るため、学問を生業にせず

商人としての素質がない宣長に、母は医者になることを勧めた。京都で5年間の修行をして28歳の時に自宅で開業。

てっきり国学一筋の人だと思っていたが、生涯を通じて医者だったのに驚いた。

「宣長は、昼間は医者、夜は町の人に古典を講釈したり研究したりする生活をしていました。医者の時は医者として、古典を研究する時には、厳密な研究者として、全く違うスイッチが入ったのです」。

宣長の残した多くの書物を見ると、それがよく分かる。原稿には書き漏らしや誤字脱字は一切なく、印刷したように整った字が並ぶ。しかし医者としてのカルテは、かなり乱筆で同一人物の書とは思えないほど。

薬箱を持った時の宣長、書斎である鈴屋(すずのや)で原稿を書いている時の宣長とは、全く別人だったのだろう。

いろんな資料を見るうちに、そんな切り替えも、不思議とすべて宣長らしいような気がしてきたのだった。

宣長の天才性は枯れることのない探究心

「宣長さんの天才性というのは、不思議だなと思ったことをずっと心の引き出しに残しておくことができることです」と吉田館長。

例えば書物を読んで「いるか」という言葉が出てきたとする。しかし見たことがないから一旦心にしまっておき、遠方から人が来た時に尋ねては具体的なイメージをとらえ、その続きを深く深く探究していく…ということ。

松阪は旅人が往来する場所であったために、多くの人からの多くの情報が宣長の中に蓄積された。

同じ人間なのに、話す言葉も風習も違う。
これでもひとつの国なのか?
共通することは何なのだろう…
宣長は、ついに「日本は声の文化である」「それを守り通したのは女性である」ことを発見した。
書物だけではない膨大な知識・見聞が、彼の血肉となっていたのは疑いようもない。

学ぶことは楽しいと次の世代へ伝えた功績

「松阪の一夜」で知られる賀茂真淵との出会いを契機として、宣長は現在最古の歴史書「古事記」の解読を始めた。

賀茂真淵から宣長へ、宣長から多くの文人たちへ国学の研究はつながっていったが、宣長以降はそれほど大成せずに終わった。
それは宣長が、圧倒的な情熱と才能の持ち主だったこともあるだろう。

「でも、宣長さんが渡したバトンは“勉強することは楽しいことだ”ということ。宣長さんの講釈を聞いた人たちはみんな、これまでとは違う物の見方や考え方を知り、学ぶことの楽しさを知ったのです」

…それは、とても分かる。資料を見ただけで、彼がどれだけ学ぶことをワクワクして行っていたのかが伝わってくるし、なによりそれを見た自分自身が、楽しくて仕方なくなってしまっているからだ。

古事記伝を音読して宣長の心に近づこう

「宣長さんの考えを知るには彼の書いた『古事記伝』を声に出して読んでみるといいですよ。
目で追ってもあまりよくわかりませんが、音読してみると、何が書かれているかわかりやすいですし、思考の過程やひとりごともメモのように細かく書かれているので、あーでもない、こーでもないと考えをまとめていた宣長の姿がリアルに感じられるんです」。

記念館では、第三日曜日の午前中に、古事記伝の音読会を行っている(予約不要・資料代500円必要)。

宣長を知りたい人は、ぜひ参加してみてほしい。新しい学問の世界が、ここから始まるかも…!